営業が語るストーリー– PROJECT STORY –

初めての海外契約と「万博プロジェクト」

英語のメールが届き、添付ファイルを開くと、資料も図面もすべて英語だった。
淺川組にとって慣れない海外案件が、大阪・関西万博のフィリピンパビリオンでした。

前例のない契約、確定しない情報の中での見積もり、そして度重なる仕様変更。現場から少し離れた場所で、営業は何を判断し、何に備えていたのか。プロジェクトを契約の段階から支えた営業担当の玉井が、受注から開幕の日までを振り返ります。

MAIN SPEAKER

玉井 勇作

営業担当

契約してから、すべてが始まる

記者

建設会社の営業と、一般的な営業との違いを教えていただけますか。

玉井主任

一般的な営業は、既に形がある商品を売っていて、店頭で販売して契約して購入といった流れだと思います。
しかし、建設の場合は、契約してからいろんなことが始まっていくイメージなんです。
つまり、すべてがオーダーメイドです。一つとして同じ仕事がないというところが、難しくもあり、面白いところだと思います。
また、お客様だけでなく、設計事務所や協力会社など、いろんな方と作り上げていきます。設計施工では、設計部門と施工部門が一体となって進めます。ケースによってパターンが無数にあります。一つとして同じものがないところが建設の面白いポイントだと思います。

記者

お客様との関係作りで、心がけていることはありますか?

玉井主任

日頃からお付き合いのあるお客様と、少しずつ関係を重ねていくことです。例えば台風のあとに築年数が経った建物であれば「ちょっと雨漏りしてきたから見てよ」というお話があることがあります。そういったことも丁寧に対応させていただくなど、日頃からお付き合いは大事にしています。
そういうところから信頼を積み上げていって、「実はね、今度工場を増築しようと思ってるんです」というお話につながっていくと思っています。今回の万博の仕事も、元をたどれば同じでした。

一つひとつの縁が、つながっていった

記者

フィリピンパビリオンのプロジェクトには、どんな経緯で関わることになったのでしょうか。

玉井主任

大阪・関西万博の開催が決まり、工事の話が出始めた頃です。
池内会長が「弊社も何か関わらないかな」というお話を、社内や社外の方々に相談していたようです。その中で上司も、万博関係に携わっている会社様にアプローチをしていました。
その中でお声がけをいただいたのが、西尾レントオール様です。
同社は仮設技術やノウハウを活かしたイベント施工事業も手がけておられ、万博においても全体の起工式や複数の海外パビリオンなど多くのプロジェクトに携わっておられ、日本国際博覧会協会からの信頼も厚い会社です。加えて「木造モジュール」という技術をお持ちでした。

記者

木造モジュールというのはどういったものになりますか。

玉井主任

西尾レントオール様が商品として展開されている建物の建て方になります。
木と金物を組み合わせることで、木造でありながら中に広い空間を作れる画期的な工法になります。
その商品がリユースできる建材として今回の万博にとてもマッチしていました。
また、「木造モジュール」を使って海外パビリオンをいくつか手がけたい、という目標を立てておられたようです。
その中で、建築の施工に関してはゼネコンとタッグを組みたいというご意向があったようですね。

記者

その中で、なぜ淺川組とタッグを組まれたのでしょうか。

玉井主任

西尾レントオール様とは、日頃からお付き合いがありました。本業はレンタル事業であり、弊社の現場に仮設ハウスや重機を入れていただいた取引実績もありますし、一方で弊社が施工者として、西尾レントオール様の和歌山営業所を設計施工で建てさせていただいた実績もあります。
その時に担当をしていたのが、私だったんです。
その経緯から万博プロジェクトの営業担当として、1回目の会議に入らせていただきました。

記者

西尾レントオール様からは、複数のパビリオン建設のご相談をいただいたようですね。

玉井主任

そうです。パビリオン建設候補はいくつか頂きましたが、プロジェクト体制やスケジュールなどを考慮して、フィリピンパビリオンを受注しました。
世界的なイベントですから不安もありましたが、海外折衝にも強いパートナーとチームを組めたことは、大変心強かったです。

プレッシャーよりも、「面白そう」が勝った

記者

国家的なプロジェクトです。プレッシャーはありませんでしたか。

玉井主任

最初はそんなに感じていなかった気がします。むしろ「面白そう」としか思っていなかったですね。一人で抱え込むとプレッシャーは大きくなりますけど、みんなで乗り越えられると思っていましたので、安心感がありました。
東京オリンピックのときが、ちょうど入社3年目くらいでした。東京オリンピックは関東でしたから、和歌山ではあまり関わることがなかったのですが、当時から万博が関西である、という話は聞いていたので、「淺川組として万博に関わりたい」と漠然と思っていました。
万博に関われるなんて、「一生に一度あるかないか」の出来事です。だから、「やりたい」という気持ちしか生まれなかったですね。

届いた添付ファイルは、すべて英語だった

記者

通常の案件と違ったエピソードを教えてください。

玉井主任

まず、「メール」です。
海外との取引がこれまでなかったので、打ち合わせも英語や通訳を介して行われます。英語のメールが飛んできて、添付ファイルを開いたら英語の資料、英語の図面がありました。そこがまず、最初にびっくりしましたね。

記者

どう対応されたのですか。

玉井主任

翻訳ツールなどを駆使しました。あとは、フィリピン側との間に、設計も担当しながらプロジェクト全体を取りまとめる日本の設計事務所様に入っていただき、英語が堪能な方に、翻訳や通訳を協力していただきました。

記者

契約の面で、いちばん違った部分を教えてください。

玉井主任

海外との契約は、淺川組にとって初めての領域でしたので、国際契約に詳しい弁護士の先生に入っていただき、条項を一つずつ確認しながら進めるなどです。
その都度、上司が間に入ってくれて、助けてもらいながら進めることができました。契約書を交わしたときは、「ひと山越えた」という感覚でした。

「よっしゃ」ではなく、「ほっとした」

記者

契約が決まった瞬間は、どんなお気持ちになりましたか。

玉井主任

「無事完成させるためには約1年前から始めないといけない」という話でしたので、契約が完了すべき時期が当然あります。
だからこそ、時間がないという焦りはありました。それがなんとかギリギリ間に合った、というところで、ほっとした気持ちはありましたね。

記者

「よっしゃ」ではなく、「ほっとした」と。

玉井主任

これはどの案件においても言えることですが、契約がゴールではなく、そこから工事が始まります。嬉しい気持ちは当然ありますが、襟を正すような感覚ですかね。
特に、フィリピンパビリオンの建設は、期間が絶対に決まっているプロジェクトです。泉所長は本当に頼もしい存在なので、工期遅れなどは心配していませんでしたが、間に合わせないといけないという責任は、営業担当者として感じていました。
だからこそ、いつも以上に気を引き締め直しましたね。

少し離れた場所から、現場を支える。情報をつかみ、上へつなぐ

記者

着工後は、営業として現場をどう支えようとされていましたか。

玉井主任

実際に現場で工事を進めるのは泉所長ですが、私も全体を見る立場です。現場がどういう動きをしていて、次は何をしなければならないのかを自分の中で整理して、意思決定をする上層部に伝える。それも私の仕事でした。
ただ、言われたことをそのまま伝えるのではなくて、自分なりに考えて「こうするべきじゃないか」という提案も重要です。そこまでが私の仕事なので、現場の状況を稲田課長や泉所長に聞いて、常に把握しようと努めていました。

記者

いちばん神経を使ったのは、どんなシーンでしたか。

玉井主任

リスク管理ですね。海外取引は為替や送金の条件など、国内案件とは前提が異なります。想定できる事態には事前に備えておくべきなので、貿易保険(海外取引のリスクに備える保険)も含めて対応をしました。

記者

見積もりの進め方も、通常とは違ったそうですね。

玉井主任

通常の工事であれば、図面や仕様がある程度固まった状態で積算 (※建設費を出す業務)に入ります。今回は限られた情報の中で、まず概算の工事費をお出しする必要がありました。
必要な情報がなければ数字は出せませんから、積算担当の稲田課長はかなり苦労したと思います。横で見ていても大変さを、常に感じていました。

「他人事じゃない」と思っていた

記者

現場では、仕様変更が度重なったと伺っています。

玉井主任

仕様変更が工程に影響しそうな時は気を張っていました。現場で対応するのは泉所長ですが、契約や条件の整理は営業の仕事です。
変更に伴う条件を早く固めて、上層部の判断を取りに行く。そこは自分の役割として動いていました。
どうしても他人事ではないんです。泉所長が困っているということは、私も含めてみんなのことなので、現場が大変な時は、やはり私も辛い気持ちになります。
しかし、私が現場に行って施工管理ができるわけではないので、自分の職務を全うしつつ、周りのサポートに集中させていただきました。

チームで、やりきる。一人で考えるなんて、とても無理な案件だった

記者

淺川組だからこそやりきれた、と思われることはありますか。

玉井主任

泉所長と稲田課長とは同期ということもあり、強い連携を感じました。また様々な問題が発生したときには、私の上司にあたる営業部長や構造設計の吉田次長も含めて、みんなで打ち合わせをすることが何度もありました。
何かことが起こると、担当者任せにせずに、みんなで支え合ってチームでやっていく。その姿勢は、やっぱり淺川組の特徴なのかなと思います。みんなで形にしていった案件でしたね。

記者

淺川組チームの連携には、支え合いに必要な「柔軟性」も感じられますね。

玉井主任

淺川組には、お互いの立場を尊重しあいながら、仕事を進められる風土があります。
みんなが、お客様のご要望を踏まえつつ、柔軟に対応していくスタイルです。その姿勢がなければ、今回のプロジェクトは成立しなかったと思います。
特に今回は、フィリピン側の政府機関や、西尾レントオール様とのJV(複数の企業が組んで一つの工事を請け負う共同企業体)など複数の関係者が一緒に作り上げていくケースでした。そのなかで、柔軟に粘り強くできたところは、淺川組の強さなのかなと思います。

記者

社内への報告は、どのようにされていましたか。

玉井主任

常に細かく報告していました。何か小さなことでも「こういうことが今起こっている」と言っておくと、実際にトラブルになりそうなときでも相談しやすくなります。契約ごとや、弁護士への相談、役員への説明など、会社を動かすというのは、一人ではできないので、細かい報告は大切にしています。
また、会社側も日頃の報告がないと、いきなり言われても動けないと思います。常に情報を共有していたのもあり、必要になったときにはすぐに動いていただけたので、非常に助かったシーンがたくさんありました。連携がないと、この仕事は務まらないと思います。

コンセプト発表会で、胸が熱くなった

記者

印象に残っている出来事として、フィリピンパビリオンのコンセプト発表会を挙げておられますね。

玉井主任

コンセプト発表会では、極秘で進めていたプロジェクトの内容が発表される、大々的な催しでした。多くの関係者が集まっていて、発表のときには驚きの声が上がったり、楽しんでいるたくさんの笑顔をみて、胸が熱くなりました。
自分が淺川組に入社した当時の「人が笑顔になったり、楽しみにしているものを作る」という気持ちを、思い出させてくれた出来事です。

妻とみた東ゲートの先に広がる「感動の景色」

記者

完成したパビリオンは、ご覧になりましたか。

玉井主任

すぐに見に行きました。本当に感動の景色でしたね。最初に行ったのは開幕してすぐの4月です。妻と一緒に行って、東ゲートから歩いて行きました。
いくつものパビリオンが並ぶその先に、フィリピンパビリオンが現れて。お客様が入っているのを見ると、喜びが込み上げてきました。胸が熱くなる。上手な言葉が出てこないんですが、鳥肌が立ちました。
完成する前に妻も「完成したら見に行きたい」とも言ってくれていたので、実現したいなと強く思っていました。その願いも叶い、フィリピンパビリオンを見たときには、妻と一緒にこの景色を見ることができ、幸せな気持ちになりました。
自分が関わった案件は、たまに妻も一緒に見に行ってくれるんです。「ここをやるときにこんなことがあって」という話をよくします。今回も同じように、すごく楽しみにしてくれていたので、一緒に見に行くことができて嬉しかったです。
また、フィリピンパビリオンに入るお客様がみんな楽しそうにしていたのが、非常に印象に残っています。それが何より嬉しかったです。

正解が一つじゃない、という面白さ

記者

このプロジェクトを通して、成長できたと感じる部分はどこでしょうか。

玉井主任

粘り強さですね。
正直なところ、最初はできるかわからなかったのが本音です。
最初からフィリピンパビリオンが完成するイメージが、自分の中で鮮明に描けているわけではなかったので。
しかし、実際にやってみると、「切り開いていける」というのを実感しました。あとは、いろんな人との調整や協力をさせていただき、交渉力や調整力も磨かれたのかなと思います。
そのような力は、学校の勉強のように答えが決まっているものではありません。人とのお付き合いの中で、磨かれてくるものなので、いろんな正解があると思います。「あのときはこうだったけど、今回は前とは違うアプローチでいかないといけないかな」などを、常に考えることで芽生えてくる力です。
そこが難しいところでもありますが、一番面白い部分だと思うんです。その難しさがあるからこそ、自分自身の成長につながると感じています。日々挑戦できる環境に感謝しています。

記者

次に挑戦してみたいことはありますか。

玉井主任

いろいろありますが、常に挑戦していますね。
淺川組は、挑戦し続けられる社風です。今は和歌山県内で、大型の医療施設の建設にも携わっています。
みんなが注目する場に、淺川組の施工した建物や構造物があると嬉しくなります。またそういう場で何か貢献できることがあったらいいなと思っています。

挑戦への原点はどこにあるのか。

玉井主任

実は、学生の頃は、やりたいことがあまり見つかっていませんでした。大学も文系で、経済や国際政治を専攻していましたので、周りは公務員に進む人が多かったです。その中で、「私は何がしたいんだろう」とずっと考えていて。
自己分析をする中で、昔見た『プロジェクトX』という番組を思い出したんです。実は、黒部ダムの話が本当に大好きなんです。ほかにも東京タワーなど大きな建設工事の物語を見て、感動した体験がありました。

記者

どのようなシーンに感動されたのですか。

玉井主任

一つの目標に向かって、みんなで力を尽くして困難を乗り越えていく。その「熱量」がかっこいいなと思っていました。学生の頃、野球やバスケットボールなどのチームスポーツをやっていたので、みんなで頑張って成し遂げるというのがかっこいいなと思ったんです。
あとは、建物や土木構造物の魅力です。
自分が死んだ後でも残るものですよね。自分の頑張りが形に残って人々の暮らしに関わっているというのが面白い、良いことだなと思っていました。
また、職人さんが丹精込めて作っていくものがかっこいいなという思いもありました。
実は、祖父が左官職人なんです。もう引退していますが、そのようなルーツも影響しているのかもしれません。
そのような、建設に関わる仕事で、地元の和歌山にも拠点があり、全国的にも展開している規模の会社は淺川組しかありません。私が入社したきっかけも含め、淺川組で建設に関わり続けたい思いは、一言で言い表せないくらいたくさんあります。

記者

最後に、玉井さんにとって淺川組とはどんな存在でしょうか。

玉井主任

自分一人では成し遂げられないことを、周りの人と力を合わせてやっていく舞台、という感じですね。悩んだり苦しんだりするときもあるんですけど、それは絶対にこの先に生きますし、将来の成長につながっていると思います。
淺川組は、私にとっては、ただ単に働く場所というよりは、自分の可能性を試して高め続ける場所だと思っています。プライベートももちろん大事なんですけど、仕事もしっかり充実させたいです。やるからには真剣に、と常に思っています。その思いが、万博プロジェクトでより強くなりました。
パビリオンは解体されましたが、みんなの記憶には間違いなく刻まれているはずです。それに、和歌山のあちこちに行くと淺川組の施工物件がたくさんあります。
それがこの先もずっと残って、いろんな人の暮らしを支えて、時にはワクワクさせたりというところで貢献できます。それはやはり、建設業ならではの良さなのかなと思います。個人的には、これ以上に面白いことって、なかなかないんじゃないかなと思いますね。

終わりに

英語で届いた図面から始まり、リスクに備え、変わり続ける条件を整理し続けた日々。東ゲートから歩いた先にパビリオンが現れたとき、「鳥肌が立ったぐらいです」と玉井は振り返ります。
一人では成し遂げられないことを、周りの人と力を合わせて形にしていく。「正解が一つじゃないから面白い」
淺川組の仕事は、次の現場へと続きます。

プロフィール詳細

玉井 勇作(たまい ゆうさく)
2018年入社の9年目。大学では経済・国際政治を学び、ものづくりに懸ける人の熱意に惹かれて建設業へ。現在は事業本部営業部の主任として、民間工事や再エネ案件を担当しながら、後輩の育成やチーム全体の運営も担っている。